後藤 友美|Tomomi Goto

SUSTAINABLEME 創業者

2021年、同じ職場(救急で患者さんが運ばれてくるような病院)で働いていた男性から、ふと悪気なく「この職場に作業療法士がいるのか」と言われてしまい、虚しさを覚えたことをきっかけとして、株式会社SUSTAINABLEMEを創業。

生まれてまもなく激動の日々(0歳~6歳)

19XX年、北海道・函館市で生まれる。生後三ヶ月目にして兵庫県宝塚市に引っ越す。
幼稚園卒園までの六年間、宝塚で過ごす。

男の子よりも喧嘩が強いパワフルな女の子であった。
牛乳が嫌いで、給食の時間は常に最後まで残り、格闘していた。

自衛官であった父親の転勤もあり、卒園後は、四国の愛媛県・松山市へ引っ越すこととなる。
生まれてから小学校に至るまで、すでに二拠点を渡り、楽しくも忙しない幼少期を送る。

自然とともに幕を開けた小学校生活(6歳~7歳)

都会で育った手前、四国の田舎に移り住んだことが、新たな刺激を与えることとなる。竹藪が広がり、歩けばクジャクに出会い、秘密基地も作り放題。山菜採りをしたり、田んぼで遊んだり。大自然溢れる環境を、好奇心のままに存分に楽しむ。

当時通っていた小学校は、通学になんと片道一時間。行きは、朝は6時50分に家を出発し、帰りは、その道を折り返すという生活であった。帰り道は特に時間に縛られることなく、帰路に溢れる大自然に気を取られ、三時間かけて帰宅。畑や田んぼでちょっとしたいたずらをしてみたり、筑紫を採ってみたり、オタマジャクシを観察したり。三歩進んでは二歩下がり、存分に帰路を楽しむ、そんな好奇心旺盛な一年生。

その後、小学二年生の時に、親が家を建てたことにより、同じ松山市内ではあるものの、引越、そして初めての転校を経験することとなる。

転校していきなり○○!!(7歳~12歳)

転校した小学校では、なんと転校直後に学級委員長に選ばれる。
当時は、比較的、運動神経も良く、マラソン大会で一位になったりと絶好調であった。自衛官の父親は、引き締まったたくましい体に、凛々しくかっこいい面構え。お迎えに父親が来た時は、同学年の女子から黄色い声援が飛び交うのを横目に誇らしく、父を自慢に思う小学生時代であった。

非常に楽しい小学校生活ではあったものの、当時、目立った存在だったためか、中学校の先輩女子から、目を付けられ、脅されるなんてこともしばしば。

勉強知らずの中学生(13歳~)

勉強そっちのけで楽しく過ごした小学生時代を経て、中学校に進学。勉強をそっちのけで生きてきたツケが、中学の定期テストで回ってくることとなる。加えて中学一年生の当時、英語のある教員が大嫌いで、その授業の度に、教員が教室に入って来るや否や、わざと保健室に行くという悪態をついていた。そんなこんなで勉強と距離があったこともあり、200人中196番という成績をたたき出す。

またスカートのユニフォームがかわいいという理由からテニス部に入部。テニス部では一度もレギュラーになることができず補欠であった。しかし、当時、足が速く、泳ぐのも得意だったため、夏場だけ、テニス部にも関わらず、陸上部と水泳部に招集され、特に陸上や水泳が好きというわけではなかったが、レギュラーとして大活躍していた。

初告白でまさかの…(14歳)

中学二年、勇気を振り絞り、初めて男の子に告白。チョコレートを渡し、思いを伝えたその矢先、校門付近で、その男の子がまさかの見せびらかしながら、告白されたことを言いふらしていた。衝撃を受け、愕然とし、これを機に男に対して嫌悪感を抱く。そこで一切、男とは話さない、関わりを持たないと誓う。

学力と男嫌いを考慮して、高校は女子高へと進学することとなる。これと決めたら徹底する頑固さ、一貫性を持っていた。

見返してやる!と心に決めた高校時代開幕(16歳)

あまり勉強が得意でなかったということもあり、高校では普通科のコースに振り分けられる。中学生の頃、祖母が脳梗塞になった事をきっかけに、将来、作業療法士になりたいと思い、目指すべく専門学校に行くと公言するも、周りからは「お前の頭では無理」だと言われ続ける中学・高校時代であった。

いとこも同じ高校の同級生であり、頭がよかった。そんな背景もあり、家に来るたびに、自分のことを、我が子(いとこ)と比較するかのように、「頭が悪い」と言ってくる叔母に対して、思春期ということもあり、無性に腹を立てる。

そんなこともあり、負けず嫌いに火が点き、勉強に精を出す高校時代が幕を開ける。

当時、数字を見ることは好きであったため、数学を頑張ることに。すると、市内でも有数の進学校の平均点を、模試で超えるなど、成果に繋がっていく。数学だけではあったものの、数学成績優秀者が入れるクラスにも入ることができ、その事実が徐々に自信となる。

反骨精神をむき出し、ひたすら見返してやると走り抜けた高校生。当時、合コンなども沢山あった時代であったが、それでもなお一切行かず、徹底的に自分の意志を貫いた。

自由を求めた大学進学(17歳~18歳)

進学する大学を決める際も、県外に出たいという思いがあったため、その旨を両親に言うと、きっぱり断れることに。母親は、県内の大学にすれば、色々と費用も浮くし、お小遣いを貯めたり、車を買ったりできると言い、県内への進学を勧める。またもやそれに腹が立ち、「人生を勝手に決めるな」と言い放つ。親が折れるまで口を利かないと心に誓うも、それを見かねた親は、せめてもの対応として、県外ではあるものの、当時父親が仕事で赴任していた先のすぐ近くであれば、と特定の県外の大学進学を許可されることとなる。

特定の大学一本勝負で受験し、無事合格を納め、県外へ進学する。

壮絶怒涛の大学生活開幕(19歳)

大学では、入学初日に、先生から「舐めたらあかんで」と勧告されるほど、進級・卒業が難しい大学であった。当時の同期卒業は、入学当初の3分の1以下となり、それ以外は、留年や退学などという熾烈な環境であった。

大学では、合計で10週間の実習が三回も実施されるカリキュラムであった。大学三年から皆、全国各地に飛ばされ、実習に向き合う。手書きのレポートに追われ、厳しい実習先であれば、何時間も怒られるような、まるで地獄とも呼べる日々を送る。

きっかけをくれた祖母との別れ(20歳)

大学二年の頃、友人関係でのトラブルに見舞われ、一時期、大学に行けなかった。そのしわ寄せもあり、単位を落としかけ、追試となる。時を同じくして、かつて中学生の頃、リハビリの世界へ飛び込もうと思ったきっかけをくれた祖母の持病は悪化していた。追試の前々日に祖母が危機的な状況にあることを知らされるも、タイミング的に、少し遅れて祖母の元へ向かうこととなる。着いた頃には、祖母はすでに息を引き取っていた。もう少し早く帰っていれば、祖母の最期に立ち会えたかも…という人生の中で最も大きく深い後悔を残すこととなる。

そんな後悔の果てに、リハビリ業界に入るきっかけをくれた祖母のためにも、やはり今留年して足踏みをしている場合ではないと心を奮い立たせ、再び気合いを入れるきっかけとなった。
その後、単位もしっかり取り切り、進級していく。

まさかのあの私が!!(22歳)

大学四年の実習では、とにかく厳しく、ほぼ試験に受からないから覚悟が必要と言われる程の実習先に配属となる。

実習を一つでも落とせば即留年という追い詰められた状況の中。とにかく実習に食らいつくべく、実習が始まる前の一か月間の休みの間に、実習期間に提出できるレポート、資料を先だって作り、実習に臨む。この対策もあり、実習先の担当者からは異例の高評価を受けることとなる。本来、大学の教員が実習先に訪問し、生徒の様子を見に来るのが一般的であったのにも関わらず、実習先の担当者側から大学の教員に対して、優秀なので訪問しに来る必要はないと言わしめるほどで信頼を得ていた。

大学一年、二年では、比較的、問題児であっただけに、本来厳しいとされていた実習先からの評価があまりにも良く、大学内では感嘆の声が上がっていたという。

そして大学生活最後には、理事長賞を受賞。周りからは驚きの声があがりつつも、どん底から這い上がった伸びしろがしっかりと評価された瞬間であった。

その後、祖母の思いを胸に、病院内のリハビリテーションに関する仕事に従事する道を選ぶ。

人生と向き合った激動の時代(27歳~30代後半)

社会人五年目あたりの頃、リハビリテーションに関するさらに専門的なスキルを身に付けたいという思いとともに、「今のままでよいのだろうか」と思い巡らす。専門に特化した作業療法士になりたいと決意。時を同じくして、リンパ浮腫という病気を患うこととなる。ここで、当時、祖母が患っていた病気が、リンパ浮腫であることにこの時、気づくこととなる。

さらに深い知識が必要であると確信するとともに、もっと知りたいという思いがこの時さらに強まり、医療大国ドイツへの医学留学に一年間、臨む。ドイツ語も独学で習得し、準備を整え、親には一週間前に留学へ行くことを報告し、止められない状況を演出し、旅立つ。

ドイツでは、医学にまつわる様々な勉学に励み、知見を蓄えていくこととなる。

そんな留学の最後で、観光がてらエッフェル塔へ。せっかくなのでと階段で展望台まで登り、パリの市街地を見下ろした時、これまでもがきながらも頑張ってきた自分を、ようやく認めてあげることができたような気持ちになったという。
されど、一向に作業療法士として一人前になった感覚はなく、「まだ足りない」「まだ出来る」と挑み続けた期間の中で、結婚、出産、離婚と数多くの経験を積むこととなる。

再挑戦を駆り立てた虚しさと決意(30歳後半~40歳頃)

同じ職場(救急で患者さんが運ばれてくるような病院)で働いていた男性から、ふと悪気なく「この職場に作業療法士がいるのか」と言われてしまう。その時、湧き上がってきた感情は、怒りよりも虚しさであった。果たしてこの職場にいるべきなのかと自問自答する中で、ちょうどその頃、女性医療をもう少し深くやってみたいという時期であり、なおかつ、20年近く働いてきて、ようやく作業療法士としても一人前として、どこに出向いても通用するスキルを身に付けたと自信を持てる時期でもあった。そんな背景もあり、起業を考え始める。

コロナ禍となった2020年、解決したい社会課題を周りの人に言っていたところ、偶然、二ヶ月間のアクセラレーションプログラムも兼ねたビジネスコンテストをみつけ、病院勤務ではあったものの、エントリーし、最終ピッチにて、人生初めてのプレゼンを実施し、優勝を飾る。

色々なタイミングが重なりに重なり、一度きりの人生、もう一度チャレンジしてみようと決心する。
ビジコンで優勝した翌年2021年の1月に、会社を設立するに至る。

前職の病院を退職する際、数多くの職員、スタッフがお別れに来てくれた上に、沢山のメッセージをもらい、溢れんばかりの嬉しさが体感したと同時に、自分で決めたこの起業という道で、必ず成功させねばと誓った。

ぷちコラム

生後三ヵ月間しか、滞在しなかった北海道・函館市だが、”函館出身”というのがかっこいいため、今も常に函館出身だと言っている。

当時通っていた幼稚園は、野球の楽天・田中投手と巨人・坂本選手と同じ園であり、年代は被らないものの、彼らは実質の後輩にあたる。

卒園式の日、式を終えるとすぐフェリーにのり、その日に四国に移動となった。

監視しやすいという理由で父親の赴任先に近い県外の大学への進学を許された訳だったが、入学と同時に父親は赴任解除となり、愛媛に戻ることに。大学初年度から親としっかり離れることとなり、ラッキーと思っていた。

大学四年の厳しすぎる実習先では、友達が実習の日々に耐えられず、自室に「探さないで下さい」と張り紙を残し、逃走する程だったという。そんな厳しい実習先ではあったものの、担当の職員さんの誕生日を祝うパーティーをしたりと、信頼関係を築きながら、充実した実習生活を送った。

2021年、起業したその日に、当時勤務していた病院に退職願いを出した。本来、病院では副業などは禁止であったものの、在籍期間中に会社を設立し、周りには言わなかったものの、言動や行動から、薄々感づかれ、退職時間際には、周知の上、皆、そっと見守ってくれる、あるいは見て見ぬ振りをしてくれるような状況であったという。

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