伊藤 圭之|Keishi Ito

アソボロジー 創業者

2012年、東京のIT企業から京都市役所に転職した後、社会人学生として多様なソーシャルセクターの方が集まる大学院に通ったり、京都市の市民協働部門でまちづくりに関わる様々な方と触れ合う中で、ずっと胸に秘めてやりたかった「こどもたちの好奇心と遊び心を再点火してオモシロがって社会で活躍できるような仕掛けをつくりたい!」という想いを実現するため、同志社大学で「こどもと社会をつなげるゲームデザイン」というプロジェクト授業を立ち上げ、そこに関わった大学生たちと一緒に、一般社団法人アソボロジーを設立。

激動のアクティブ幼少期(0歳~12歳)

1979年10月、兵庫県の赤穂市民病院で生まれる。父親が大学院生だったため、アメリカに留学に行く関係で0〜3歳頃までアメリカで過ごしていた。帰国後はしばらく大阪の茨木市に住み、幼稚園に上がる頃に奈良市に引っ越す。

小学校1年生の1学期の終わりに友達とも馴染んできた時に、同じ奈良市内でまた引っ越すことになった。転入した先の小学校ではすぐに夏休みになる時期でもあり友達をつくるのに苦労した。小学校1年生の夏休みの間のエピソードとして、前の小学校の友達に会いたくなり、6kmほど離れた前の家まで(親の車でしか移動したことがなかったため)阪奈道路という自動車専用道に忍び込んで側道を歩いて行き友達のお母さんを仰天させたことがある。

小学校3年生の時、再び父親が単身赴任でアメリカの大学に行くことになり、まだ幼い妹と弟とともに家族でアメリカに移住することとなる。英語をすっかり忘れていたにも関わらず現地の学校に行くことになった。そんなこともあり、あまり言語を必要としない算数、音楽、体育の授業が楽しみだった。

その後、小学校4年生ごろに奈良に戻ってからは大学に入るまで奈良県で過ごす。

本を読むのが好きな子どもで、友達の家に遊びに行っても、片っ端から本を読んで過ごしていて、友達のお母さんを呆れさせた。

失敗すら満喫しちゃう青春(13歳~19歳)

中学、高校は勉強も部活もそこそこに、友達とアホなことを言ってふざけたり麻雀をしたり楽しく過ごし、滑り止めを受けるという概念もなく一校だけ受けた国立大学は見事に滑り一浪することになる。浪人時代は予備校に行ったり、古本屋巡りをしたり、図書館のAVコーナーで映画を観たり、公園でサッカーをするなどして満喫し、最終的に持ち前の国語力だけで行ける早稲田大学第一文学部に進学した。

父親が文化人類学の研究者であったことや、自身が幼少期から色んな文化に触れてきたこともあって人間の生き方、考え方=「文化」に非常に興味を持つようになった。

世界を駆ける大学時代(20歳~22歳)

大学時代は公益財団法人早稲田奉仕園という法人が運営するキリスト教系の寮で暮らしながら、大学の授業もそこそこに音楽サークルや奉仕園が主催する異文化理解のインカレゼミに参加し、途中から運営にも携わるようになる。このゼミではカナダや韓国、ベトナムなど海外に行って現地の学生とフォーラムを開いて文化や政治のことについて議論などをしていた。

喉元過ぎれば熱さ忘れてまさかの…(23歳ごろ)

就活では、大学受験の失敗をすっかり忘れ、某教育出版社一社のみを受け最終選考まで進んだが、最終選考当日の朝まで飲んでいた結果見事に落ち、どうしようかと思いながら行った企業説明会でIT企業の会社と出会った。そこで、IT業界は様々な業種や業界の企業と仕事ができること、その会社が理系人材だけでなくお客さんとしっかりコミュニケーションを取れる人材を探していたこともあり、飽きっぽく色々なことをやったり、色々な人と話すことが好き自分に向いているかもと思い入社することにした。

現状維持に焦りを覚えるファーストキャリア(24歳~31歳)

7年間、IT企業に勤めることとなる。初めは様々な職種や業界の人と仕事ができると思っていたが、実際は入社後最初に配属になったメガバンク担当のまま7年間が過ぎ、ずっと同じプロジェクトで仕事をすることになってしまった。。このままでは自分が思い描いていたキャリアにならないと思い、転職活動を始める。

激動の日本を背景に激動のセカンドキャリア(32歳~30代後半)

「様々な人と仕事ができる」ことを条件に転職先を探し、民間企業も含めていくつか内定を頂いたが、色々ご縁や思うところもあり経験者採用試験を経て、2012年京都市役所に入庁。2011年3月に住んでいた東京で経験した東日本大震災。当時結婚していて奥さんと3歳の子供もいたが、共働きで近くに頼る人もいない中、余震や計画停電が続き家族3人で不安な生活を過ごした経験も、生まれ育って親族もいる関西にUターンするきっかけとなった。

京都市入庁当初は前職の経験を生かしたシステム関係の仕事をしていた。4年目総務部門に異動になった際、2人目の子どもが生まれたことをきっかけに9か月間の育休を取ることになった。育休期間中は子どもを公園に連れて行ったり、行政が行っている子育て広場にお母さん方に混じって参加したり、学生時代や仕事だけをしていた時とは全く違う新しい世界、文化を味わうことができた。

学生として新たな挑戦(30代後半)

復職した後、人事部門に異動することになったが、公務員の基礎スキルである法律の勉強をちゃんとしたことがなかったこと、新しいことを学びたい思いもあり、社会人大学院生として龍谷大学法学部の大学院に通い始める。地域公共人材総合研究プログラムというコースに進み、多くの自治体やNPO等ソーシャルセクターの方と触れ合い、地域で活躍しながら学ぶ社会人院生や公共政策に興味のある大学卒の院生とともに勉強できて非常に刺激を受けた。同じ時期に市役所内の研修である「市民協働ファシリテーター養成研修」を受講しとてつもなく忙しい毎日を送った。

自ら新しい世界を”興す”側へ(40歳)

2019年にはこれまでの経験やファシリテーターとしての活動も評価されSDGs・市民協働担当に異動になった。この時期から仕事を通じてますます外部の人と積極的に繋がり始める。
その一つの活動として大学生を弟子にとる「師弟インターン制度」という"個人"対"個人"の新しいインターンシップの形を勝手に始める。

通常のインターンは企業や組織として個人の大学生を受け入れるが、一人の社会人として大学生を弟子に取り、仕事の場に同伴したり、一緒にプロジェクトを実践したりするものだ。

遊び心は忘れずに(41歳)

2020年からは、副業として同志社大学プロジェクト型科目の嘱託講師となり「こどもと社会をつなげるゲームデザイン」という科目を担当。受講生である大学生がプロジェクトメンバーとして子どもたちが社会に興味を持ち、積極的に関われるようになる仕掛け(ゲーム)をつくる授業の指導をした。

この授業をきっかけに参加した学生の「一年間の授業で終わりたくない、自分たちのゲームを世の中に広めたい!」という想いを受けて、2021年アソボロジーの活動が始まった。

幼少期の海外体験にはじまり、異なるセクターへの転職や、副業、育児休暇など自身が幼少期から様々な「異文化」を体験してきた中で、ある考えは違う文化では全然違う考えかもしれない、枠の外の人と話して、触れ合えば、新しい何かが生まれるかもしれないということの大切さや面白さを感じたため、この世の中にもっと固定観念に囚われない好奇心や遊び心に満ちた人を増やしたいという想いを強くしてきた。

アソボロジー活動当初は大学生とともに任意団体として活動していたが、ソーシャルインパクトを高めて、よりいろいろな仕事ができるようにするために、また法人をつくるなんてやったことなくて面白そうと思い、2021年一般社団法人アソボロジーとして法人化した。

アソボロジーの由来は、「遊び」と「ロゴス」の融合である。

ぷちコラム

大学時代早稲田奉仕園主催の海外フォーラムに何度も参加したが、お金がない一人暮らしの学生で毎回奉仕園から借金をして渡航していたため社会人になってからもかなり長い期間返済していた。

なお、奥さんはこの時のインカレゼミで出会い一緒に海外にも行った仲である。

現在は借金も返し終わり、2023年からは早稲田奉仕園の評議員も務めることになった。

好きなミュージシャンは Simon & Garfunkel、Blankey Jet City、井上陽水など脈絡があるようなないような面子。

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