土井 仁吾|Jingo Doi

Omochi 創業者

2022年(24歳)、元より個人事業主として開業し、食育のイベントを子ども食堂で行っていた中で、請けることとなる大きな仕事が、法人格を必要とするものであり、それを機に、株式会社omochiを創業。

クリエティブなわんぱく時代(0歳~6歳)

1997年、北海道・札幌市に生まれる。両親とも北海道出身であり、純粋な道産子。
幼少期は、よく郷ひろみの真似をしながら外へ繰り出す、ふっくら元気な子どもであった。二歳下の弟の耳たぶを触り、愛でることが日課であった。

幼稚園では、ウルトラマンティガ、ポケモンの指人形、トミカにハマっていた。
また一方で、漫画を描いたり、少し難しめな折り紙に挑戦したり、ティッシュを丸めてオリジナルの怪獣を作ったりと、創造的な遊びを好む性質も持ち合わせていた。

当時、通っていた幼稚園では、年に一回、コマ回し大会があり、感化され、コマにハマる。ただ単にコマを回して競うだけにとどまらず、紐の上を走らせたりとテクニカルなことまで。

幼稚園では、気の許せるような友達は、あまりおらず基本的には孤独で、されど楽しく、色々な遊びに触れた。

父親は、化学製品を扱う会社の営業マン。父親の仕事の都合上、3歳の頃に大阪府茨木市に引っ越す。

初めて脚光を浴びた小学生(6歳~8歳)

小学校では、夏になれば、バッタを捕まえて育てたり、ザリガニを捕まえたりと、自然へ繰り出すアクティブな少年。特に習い事はしていなかったものの、近所の肩が強い兄弟をドッヂボールでライバル視しながらも、同じマンションに住む子たちを取りまとめ、みんなで遊びながら、日々精を出していた。

字を書くのには自信があり、漢字練習帳など真面目にこなしていた。

小学校二年の時に、初めての晴れ舞台を経験する。小学校での演劇にて、ハリー・ポッターを文字った「ドイー・ポッター」というタイトルで主役抜擢。

そんな中、小学4年のタイミングで、再び父親の仕事の都合による引越によって、千葉市の小学校に転校することとなる。特に悲しさはなく、振り返ればめちゃくちゃ楽しいという感覚はなかった。

バスケットボールを始めるも…(9歳~12歳)

転校した先では、大阪から来た転校生ということでチヤホヤされ、すぐに友達もできた。
何か習い事をしたくなった矢先、ふと校庭でバスケをしている人たちが目に留まり、ミニバスケットのクラブに入る。

バスケをするのも見るのも好きだったが、同じクラブチームのメンバーはやんちゃな子が多く、そのチームでするバスケはあまり気が乗らなかった。足は速く、持久力もあったが、特別シュートが上手いわけでもなく、背が高いわけでもなかったので、ベンチにいたりたまに試合に出るといったクラブ活動であり、悶々とした日々を送る。とはいえ、クラブに入っていない別の友達とするバスケがとても楽しかったという。

また、当時、女の子より背が低いことがコンプレックスで、恋愛などにも真正面から向き合えない複雑な時期を過ごす。
当時、親しかった子が、サバゲ―をしたり、色んな魚を飼っていたり、公園の滑り台でやんちゃしたり、自転車で下りてはいけなさそうな坂を下りてみたりと、とてもアクティブで色んなことをする子だったこともあり、その子の影響で色々な世界を知るきっかけになった。

いのち大事に(13歳~15歳)

地元の中学校に進学。小学校のミニバスのチームに在籍していたやんちゃな子たちも同じところに進学し、その子たちが本格的に荒れていく時代を共にすることとなる。如何に被害を受けずに学校生活を過ごすかに注力するそんな中学時代。

中学校のクラスは荒れに荒れており、授業のボイコットや先生に黒板消しが飛んだり、朝の教室である生徒がやんちゃな子たちに袋叩きにされていたりと、深刻な状態であった。そんな日常に怖さを覚えながらも、やんちゃな子たちと同じ部活だったため、部内でのいじめなどはなく、被害にあうことはなかったと。しかし、やはり小学校の時と同様に、外部の友達とのバスケが楽しく、給食を早く食べ終えて、仲の良い友達とバスケをしたりしていた。

中学時代の後半は、塾にも通い、勉強に精を出す日々を送った。

第一志望校へ進学!!(15歳~16歳)

第一志望であった幕張総合高校に受かり、進学。一学年なんと20クラスもある超マンモス校であった。それに伴って校舎も非常に大きく、移動教室がだいぶしんどかったという。

また、バスケの強豪校であり、どんなものかと練習を観に行ったところ、監督が非常に怖そうで、かつ、練習もとにかくきつそうだったので断念。たまたま隣のエリアでやっていたバドミントンに興味を引かれ、体験入部。体験時に、先輩からめちゃくちゃ褒められ、そのまま入部。バドミントンを始める。

当時、高校生になり、初めてスマホを持つことが許され、とにかく嬉しかった。パズルゲーム「パズドラ」や「にゃんこ大戦争」など数多くのスマホゲームにハマる。

勉学では、非常に優秀で、特進クラスのようなポジションに身を置き、比較的早い段階で受験を見据えた勉学に取り組んでいた。

楽しい学校生活の矢先に…(16歳)

高校二年のタイミングで、またも転校することとなる。先は、宮城県仙台市。
この時の別れは、非常に悲しく、当時、密かに好意を寄せていた女の子からの別れの手紙をもらい、もしかしたら気があったのかも…と思いつつも別れを迎えるというほろ苦い思いも経験。そもそもせっかく入れた第一志望の高校をわずか一年程で去ること自体に悲しさを覚えた。

高校の転校時、まさかの高校編入試験に落ちてしまう。少しランクを落として編入試験に挑み、無事編入となった。

個性豊かで楽しさ全開!(17歳~18歳)

編入先の高校は、制服はなく服装自由、髪染めやピアスの着用もOKという非常に自由な校風であり、かつ、部活もなく、すべてサークルという形で、まさに大学に近い雰囲気であった。金髪や青髪の子もおり、衝撃を受けたものの、実際に話してみると皆、人が良く、すぐに受け入れてもらい、人気者となった。人生のモテ期とも言える期間を過ごし、勉学でも頭が良いといわれる結果を残し続ける。学年成績では、一桁の順位をたたき出す程であった。まさに楽しさ全開の高校2、3年であった。

サークルに関しては、やはりこれまでみてきた”部活”とは違い、緩い部分が多く、それが何となく嫌で、結局サークルには属さなかった。趣味程度にバスケは続けていた。

天狗となってしまいまさかの○○(19歳)

絶好調の高校生活の中で、授業をまともに受けずに、自分一人で図書館で勉強するなど、自分の力を過信し、天狗になってしまう。その結果、志望していた大学受験に落ちてしまう。人生において明確な挫折であった。受かった大学もあったものの、第一志望に落ちたことが悔しくて、親に頼み込み、予備校に通う許可をもらう。浪人という選択をしたのであった。

勉強自体はゲーム感覚であり、好きだったため、365日河合塾に通い、受験勉強に明け暮れる浪人時代を過ごす。

挑戦に溢れた大学時代(20歳~21歳)

実家を離れ、遠くに行きたいという思いと、経営に興味があり、専門的な大学に行きたいという思いから、神戸大学経営学部へ進学。運動部はきつそうだったので文化部かサークルかという選択の中で、英語研究会という部活に入会。当時、英語が一番得意な科目であり、加えてもっとかっこよく話せるようになりたいと思い、そして部活内の雰囲気も良かったため入部を決意。英語でディベートをする部門を選択し、これを機に英語力が大きく成長することとなる。また論理的に考え、物事を発信する能力も同時に身についた。

一方で経営学部の授業はあまりハマらず、英語研究会に没頭する大学生活を送っており、一年の夏からプチ留学のプログラムでマレーシアに行く。この時、マレーシアの現地の食文化をリサーチ。これが後に起業する会社の(食育という)ドメインに影響することとなる。

挑戦に破れる時も(22歳)

大学二年の時に、学内のソーシャルビジネスコンテスト(英語)に、友達のお誘いもあり、半ば強引に参加させられることとなる。いざ終えてみると、「自ら取り組みたい課題を立て、アイデアを出し、それを発信し、それを具現化していく」という一連の流れが、非常に面白い体験であり、起業家精神が芽生える。
この時、取り上げたテーマもフードロスであり、この大会では負けてしまったものの、食というテーマにさらに興味・関心を深める機会となった。
当時の具体的なテーマが「幼児向けの食育グッズの開発」であり、チームを組んでやっていたものの、負けたことが悔しすぎて、チームは解散してもなお一人でやっていこうと心に決める。食品工場に調査のため電話をかけたり、100均で素材を揃えてプロトタイプをつくり、ヒアリングしながら実際に使ってもらったりと、思考錯誤を繰り広げる。

京都で巡り合った社会起業家支援プログラムに1期生として参加。そこでも自身の思いと自身が作ろうとしているサービスに乖離があると指摘を受け、衝撃を受ける。

食をテーマに進み続ける!(22歳~)

そんな支援プログラムの中で大学を休学することを決める。それまでは就職活動もしており、ニトリから内定をもらうも、就職して働いている自分を想像した時に、ふと「これでよいのか?」と疑問を抱く。これまで色々な活動を大学でしていたこともあり、それを突き詰めてみたいという気持ちに駆られる。内定を断り、休学を選択した後は、食に関する知識不足を補うために、フードロスを解決するというミッションを掲げた八百屋さんでインターンしたりと積極的に動き回る日々を送る。実際に農家さんと話し、色んな裏側を知る機会にもなり、接客する中で野菜の良さを伝える手法であったりと数多くの経験を積む。

その後、個人事業主として開業し、食育のイベントを子ども食堂で行うなどの活動を始める。

その後、集客などでも苦戦する場面はあったものの、月二回のペースで色んなテーマ(カレー、お出汁、野菜など)でイベントを企画開催し、着実に経験を積むとともに、人脈も増え、小学校でもちらほら授業させてもらえるようになったりと、進捗が生まれ始める。

神戸市とも連携し、イベントを企画したりと、徐々に規模の大きな仕事にも携われるようになった。

その後、請けることとなる大きな仕事が、法人格を必要とするものであり、それを機に会社を設立するに至る。

ぷちコラム

幼少期にハマったウルトラマンティガ。でも本命はウルトラマンではなく怪獣の方であった。

人生で初めての手術・入院を体験する。内容的には深刻な病気ではなく、歯茎の治療であったが、その入院期間にコロコロコミックとシゲキックスに出会う。

家族揃ってゲーム好きであり、小さいころからバイオハザードなど、年齢対象外のゲームも嗜む。ゲームボーイアドバンスを買ってもらった暁には、数々のポケモンを捕まえる日々に没頭した。

人生で初めて企画した食のイベントでは、集客からポスターデザインまで一人で頑張ったものの、お客さんは0人という刺激的な幕開けとなった。

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