池田 航介|Kosuke Ikeda

Perma Future 創業者

2022年(24歳)、全国各地の農家やエコビレッジを見て回り、オランダをはじめとした世界のサーキュラーエコノミーを実践する企業を視察したことをきっかけに、これからは環境と経済と人間の幸せを追求した生き方をしなくてはと思い、株式会社Perma Futureを創業。

家業の八代目として始まる人生(0歳~12歳)

1997年、静岡県沼津市にて、三人兄弟の真ん中、長男として生まれる。
青果物の卸売を営む父の元に生まれ、代々続く青果物卸売会社の八代目跡取りという立場である。当時から伝統を重んじる家柄であり、父は経営者としてとても厳しい人であった。一方で母はバランスをとるかのように優しく接してくれた。

自ら無人島に行くプログラムに参加したり、毎年キャンプに参加したりと、自然とともに、非常にアクティブな幼少期・少年期を過ごす。

毎週土日になると、父と祖父が話している経営学を小耳に挟みつつ、後継ぎとしての自覚が芽生える一方で、海外にも興味を持ったり、もっとこんなことしてみたいという夢や想像を膨らませる。

早すぎる別れ(13歳)

中学一年の頃、母を病気で失う。優しかった最愛の人を亡くし、大きなショックを受け、希望に満ちていたはずの少年から希望が消える。あたりまえの日常が崩れ去り、目の前が真っ暗になった瞬間であった。

そこで支えとなったもの。それは、家族、親戚、兄弟、友達、身の回りの人たちであった。彼らの計り知れない優しさに支えられ、再び前を向き始める。

多くの人に支えられ、前を向いた中学時代(14~15歳)

母を亡くし、表現できない程の絶望に包まれた中学一年。そこから数多くの人に支えられ、中学時代に臨むこととなる。

そんな周りの支え、優しさのおかげで、簡単には収まらない悲しみを背負いながらも、部活はバスケットボールをし、クラスでは生徒会活動に励み、楽しく充実した中学生活を送ることができた。

この頃を境に、父は、母の代わりをするかのように優しい性格になったという。

人生と向き合い始めた高校時代(16歳~19歳)

高校に進学し、将来の進路を考え始めたとき、これまでの人生を振り返り、自分は何がしたいのかと自問自答する。その中で、これまで存分に親にお世話になってきたからこそ、親孝行がしたいと強く思うようになる。自分ができる親孝行とは何なのか。辿り着いた答えは、家業である青果物の卸売会社を継ぐこと。ここがまさに決心したときであった。

家業は業種的に農業系の会社であるため、高校の頃から、必死こいて農業の勉強に食らいつくこととなる。

過酷を生き抜いた浪人時代(19歳)

家業を継ぐために学び、力をつけると誰よりも目標や理由を明確に持って、ストイックに勉強に励んだ高校時代後半戦であったが、いくら勉強しても全く成果がついてこなかった。
そのまま大学受験浪人をすることとになる。

北九州予備校での浪人生活は、東京での寮生活。スマホは持ち込み禁止、外出もほぼ禁止、門限は17時、朝5時に起きて予備校に向かい勉強をし、自由時間は1時間程度。まさに”監獄生活”とも呼べるスパルタな日々であった。その環境下で受験戦争とも呼べる競争社会を生き抜いた。

己の熱い思い再び届かず…(20歳)

過酷な予備校生活を一年間経て、再度、大学受験に挑むも、すべて不合格となる。
二浪することを決意するも、一浪から二浪に移る期間は、「誰よりも明確な目的と理由を持って、誰よりも勉強をやって報われないんだ」と自分の人生に対して呆れにも近いショックを受ける。

まるで”監獄”。そんな過酷な予備校生活が2年目の幕を開けることとなった。
勉強漬けの日々に腹を括り、挑戦を選んだ。

ただ、この二浪目の期間が、深く人生を考えるきっかけとなる。大学に合格したら、何のために何をしたいかなどをリストアップしつつ、思いを膨らませ、当時の予備校のメンバーとも密に時間をともに過ごすことになるので絆も生まれ、日々のきつさの中にも、楽しさを忘れず浪人時代を過ごす。

〇〇することをやめた大学生(21歳頃)

二浪して挑んだセンター試験も失敗することとなる。その時に、紙切れ1枚で自分を判断されることにうんざりするも、私立の明治大学に合格し、進学することとなる。

この時に、真面目に生きることをやめた。

いい大学に入るために勉強したり、いい会社に入るために勉強したり。その上で最終的には紙切れ1枚で成績がどうだと裁かれる。そんな世の中の構造に、ある意味、憤りを覚え、自分の「夢」「情熱」「行動力」を評価してもらえるよう生きようと決意。

単位をとるため、他者から評価してもらいたいから勉強しているのではないという考えから授業は面白いので出席するが、意味を見出せないようなレポートは出さないなどという癖が強いスタイルだった。

浪人期間での「人生と向き合う時間」の効果もあり、大学入学当初からとにかく動きまくる。ベトナムへの海外インターンやカンボジアのプログラム、スリランカでのホームステイ、アメリカに行ってみるなど、浪人時代にリストアップしたしたいことを次々と行動に移していった。

経営に関しても、興味は依然あったので、大学1年のころに六本木の経営が学べる居酒屋で働きながら、知識を蓄えていく。

その居酒屋では、自分の給料は自分で設定したり、PLやBSも自由に見ることが可能、自分でやりたいことは自分で実践し改善などもすべて自分でやっていいという、まさに実地での経営が学べる貴重な機会となった。

その後、自分でやらねばと思い、大学一年にして、フードロス問題に訴求するレストラン(こども食堂)を起ち上げる。結果的には、自身の情熱がいきすぎてしまい、周りのメンバーが誰もついてこれなくなってしまい崩壊状態に。

大学時代はとにかく行動し、とにかく失敗し、多くの経験をした激動の期間であった。発展途上国から先進国まで幅広く世界を見た上でまず自分にできることは何かを探し、自問自答し続けた期間でもあった。

徐々に社会に入り込んでいくなかで、結局、お金を稼ぐため、利益をあげるために環境破壊しているこの世の中で、自分が家業を継ぎ、会社の利益を追い求め、会社を大きくすることに尽力することが本当に親孝行なのかという疑問を抱き、違和感を覚える。

それよりも会社を通じて誰を幸せにするか、どんな世界を実現するかが大事であり、それを全うすることが、本当の親孝行であると考えるようになる。

どういう社会像を目指せばよいのか、何が幸せなのか、ウェルビーイングとはなんのか。哲学的な思考に移行し始めるきっかけともなった。

農家を巡る旅へ。気づきに溢れた分岐点(22歳頃)

一方で、エコビレッジという、貧困層ではあるものの自分たちの経済圏で生活をまわし、楽しそうに幸せに生きている世界を目の当たりにし、衝撃を受ける。「貧困=しんどい・きつい」という物差しは、資本主義という枠組みの中で演出されるものであって、その枠組みを意識しなければ、「貧困」という概念はなくなるのではないかと理解を深める。そしてここに更なる魅力と面白さを覚えることとなる。

この一連の旅を通して、「環境と経済と幸せが循環する社会」を創りたいと、自分の思いを言語として理解する。資本主義が一概に悪というわけではなく、資本主義に合わない人が駆けこめる環境が存在してもいいのではないかという考えに至る。

目指したい社会像が明確になってきた段階で、任意団体としてPerma Futureを起ち上げる。

もがきながらも、新たな形を生み出し創業へ。(24歳頃)

任意団体を起ち上げ、エコビレッジ的な環境を目指し、動いていたものの、やはり経済性が全くないということで、社会性と経済性の両立の難しさにもがくこととなる。

なんとか経済性を見出すべく、ビジコンやアクセラ、オンラインコミュニティなど様々な挑戦をするも、なかなか上手くいかず、原点に立ち返り、しっかりと仕上げた活動がEARTH MIND(エコビレッジの健康茶)という商品の開発・提供であった。しっかりとエコビレッジに関する情報を世の中に伝えつつ、収益を兼ね備えたビジネスモデルとして始動させ、この活動を機に、大学四年、株式会社Perma Futureの起ち上げに至る。

ぷちコラム

大学受験にて二浪目に突入する際に、ふと咲いている桜を見て、本来であれば、大学のキャンパスで見る予定をしていたこの桜を、また今年も予備校で見ていることに、とてつもない虚しさを覚えた。

-サービス, 小売
-, , , , , ,