吉村 健吾|Kengo Yoshimura
2022年(30歳)、偶然知り合った中学生の母親から勉強サポートを任され、従事する中で、中学生をはじめとする子どもへの教育に興味を深め、正解だけを追い求めるのではなく、その過程をどうするか自分の頭で考えるというスタイルを基調として教育事業・スタディブレインの前身を始動。
並々ならぬ成長速度で文武両道(0歳~12歳)
1992年、大阪市内で二人兄弟の長男として生まれる。幼稚園は、発表会にてラストのまとめ役で発表したり、運動会のリレー代表など、自然と、大役を任される機会が多く、その後も文武両道でこなす子として周りに認識されていた。休みの時は、淀川の河川敷でスポーツをしたり、虫取り、生き物の飼育などに熱中するアクティブな少年であった。
小学一年、地域の個人塾に通い始める。その塾で毎回行われる「100マス計算」に全力を注ぐ。その100マス計算は小学生から高校生までが実施しており、歴代の回答速度記録が並ぶのを目の前にし、小学一年ながら、勝ちたいという闘争心が芽生える。如何にすれば早く計算を解くことができるのか、考えに考え、試し、二ヶ月後あたりで、これまでの歴代記録をすべて更新するという快挙を成し遂げる。足し算から始まり、自身で引き算、掛け算、割り算を習得し、挑戦する。そんな小学一年で小学六年までの塾のカリキュラムを終わらせてしまう、そんな走り出したら止まらない幼少期であった。
野球と勉強と遊びに振り切る学生生活(13歳~18歳)
中学受験を経て、中学高校と男子校に通うこととなる。中学高校の六年間は、野球、勉強、遊びに振り切った学生生活を送る。
中学野球では、準優勝や優勝を飾り、上位に名を連ねるような比較的強いチームに所属していた。
高校野球になると、ベスト16まではいけたものの、スポーツ推薦の子たちが沢山いるような強豪校には勝てず、悔しい思いも経験することとなる。
勉強では、中学高校ともに、常に学年上位層に入っており、常に文武両道で学生生活を駆け抜けた。
苦しい家庭を目の前にして揺れる決断(18歳)
高校三年の頃、父親の癌が発覚。ステージ4という重度の癌であった。自営業だった家庭的背景もあり、親が働けなくなると、収入がほぼ0になってしまうのではないかと、子どもながらに理解していた。
元々、京都大学を志望していたが、長男として家庭を支えるためにも、その選択肢を捨て、父親を助けるべく、医学部に進学するか、将来家族を養うために、給料の良い就職先に就ける大学への進学か、高卒で働くかの三択で揺れることとなる。
親との話し合いの中で、医学部への受験には挑戦するものの、一ヶ月足らずという短い期間での対策で、国公立の医学部に受かるというのは至難の業だと理解していたので、サブとして、ネームバリューもあり、就職先にも希望が持てる神戸大学の海事科学部を受験することに。高卒で公務員になろうとも考えたが、親からは反対され、受験を見据えた二択に絞る。
ちなみに、良い就職先として、海運業をマークしていた理由としては、新卒から年収が高く、家庭をなんとしても支えたいという思いにマッチする選択であり、親孝行にもなると感じたためである。
無駄に溢れた大学生活(19歳)
大学受験を経て、準備不足だった医学部受験は失敗したものの、神戸大学の海事科学部に無事合格し、進学。
大学進学後もなるべく親に負担をかけないように、大学内で特待生となり、大学の約三年間、学費などの金銭的負担はほぼ免除されていた。成績は良かったが、授業にはほぼ出ておらず、基本、ほどほどに遊び、中途半端に部活をし、バイトをする、そんな日々だったという。
バイトでは、塾のチューターをしたり、イベントスタッフを軸にしていた。
弱くても勝つ!!「無理」に挑んだ大学野球(20歳~21歳)
大学での部活は、海事科学部限定の野球部に所属。部員は10名程しかおらず、野球をしたことがない先輩もいるような、いわゆる、弱小チームであった。同じリーグには、部員100人でメンバーも甲子園に出ていたような人たちやスポーツ推薦の人たちばかりで、さらに自チームの弱さは際立つ状況にあった。常にコールド負けするようなチームに属することとなるわけだが、ここでも持ち前の負けず嫌いに火が点くこととなる。
「弱いチームが強いチームに勝つ」というそのストーリー性に面白味を覚え、大学二年からキャプテンを務め、徹底的にチームの意識改革を始める。
少しずつ勝利が増え、大学三年の頃には、かつて一勝もできなかったチームが、四、五勝を納め、最下位を脱出するという快挙を成し遂げた。
目的の一つに辿り着いた就職活動(22歳)
就職活動は出遅れたものの、勉強が得意だったので、TOEICなどの就活で必要とされるスコアを取り、元よりの目的であった、収入の良い就職先に行くため、海運事業をしている大手三社の中で日本郵船に狙いをつけ、就活に励む。一社のみしかエントリーシートを出しておらず、一本勝負で挑んだ。結果、内定を掴み取ることとなる。
順風満帆!社会人生活開幕から新婚生活開幕(23歳~26歳)
志望していた就職先に行き、計画通り、親への仕送りも給料から捻出できるようになった。加えて、お金のゆとりも生まれるようになった。新卒二、三年目は、そのお金で、婚活パーティーや合コン、交流会などに行きまくり、遊ぶ、そんな社会人生活を過ごす。
父がすでに亡くなっていたこともあり、早く結婚したいと思うようになっていた。自分で家族を持ち、独り立ちしたいという思いであった。
23歳の頃に出会った女性に惹かれ、出会って三ヶ月ほどで結婚。楽しい新婚生活を送り、社会人生活を謳歌した。
〇〇の違いが生んだ離婚劇(27歳)
新婚生活を経て、子どもが生まれ、順調かと思われた矢先、悲劇を迎えることなる。
当時の奥さんと、教育観の違いで離婚。型に忠実な子育てに臨む奥さんを裏目に、その方針を、融通が利かなく、ゆとりのない教育であると違和感を覚える。
一概に「子ども」と言っても、個体差や様々な成長スピードがあり、その子にあった育て方があるのに、それを無視して、世間一般的な教育手順をこなしているように感じた。そんな違和感を指摘する中で、言い合いになり、教育観が合わないということで相当揉めることとなり、最終的には離婚に至ることとなる。
当初は、言い合いになった末、最終的には、元奥さんが自分の元へ戻って来るかと思っていたが、彼女は実家に戻り、渡していた銀行口座からは、当時貯金していた700万~1000万円程の全財産を引き取られ、相手側には弁護士も付いているという、修羅場と化した。離婚裁判をするのか否かを目前として、法律に関する知識を勉強したところ、男性に不利な状況が重なる現状に気づき、悔しくもあり、かつ、ここで裁判費用を浪費するくらいなら、そのお金を子どもに渡すと考えれば、1000万ほど取られても仕方がないと折れることにした。
27歳にして、これまで築き上げた財産はすべて失い、無一文となる。
子どもも相手方に取られ、養育費も子どもが20歳になるまで払うという結末になってしまった。
悲劇を糧に第二の人生へ(29歳)
一連の悲劇を経て、元奥さんの教育観は如何にして生まれたのかを考えるようになり、思考を重ねていく中で、理解するということをないがしろにし、ただひたすら勉学をこなし、好成績を重ねれば、進学できてしまうという日本の教育環境の弊害なのではないかという考えに辿り着く。
こういった教育環境が無数に発生しているのであれば、日本としても産業が衰退する原因になると感じるようになる。
新入社員にしてみても、初めの研修で三年ほどを費やし、それでも成長できなければ、切るという多くの会社のスタイルに、研修期間の無駄という観点から違和感を抱くとともに、もっと子ども内から社会でも応用できる柔軟な思考を養う教育環境をつくりたいと、志を掲げる。
このタイミングで当時働いていた会社を辞めることを決意した。
当時は、結婚直前の同世代、かつ、ただただ正解を求めてきた人たちに向けて、考える力を付けてもらいたいという思いから教育事業を始めようとしていた。婚活と組み合わせて、そこに来た人たちに講座を受けてもらい、考え方を変えていくという流れを作りたかったものの、描いていたターゲット層にニーズがなく、スケールに陰りがみえた。
そんな検証倒れとも言える挑戦から第二の起業家人生が幕を開ける。
子どもたちへの教育へ(30歳)
どんな方向性で教育事業を展開しようかと考えているタイミングで、とあるコワーキングスペースで出会った人から、子どもの勉強に力を貸してほしいと頼まれる。
時間に余裕があったため、中学生への勉強サポートを始め、独自の学習方法を試しながら、その子に適用したところ、ものの数が月でその子の成績が爆発的に成長。ただ単にテキストの内容を覚えるのではなくて、どうやったら自分の成績はあがるのかというところから頭を使い、体を動かし、検証する。そんな学習方法に面白さを見出し、子どもへの教育事業に邁進するきっかけとなる。
ぷちコラム
幼少期、とにかく色んな生物を飼育するのが好きで、弟と生き物を捕まえては、育ててをくりかえしており、身の回りにいるような生物はすべて育て尽くした。
小学一年の「100マス計算」での負けず嫌いを皮切りに、周りが「無理だ!」ということに挑みたくなる性格であった。中学高校の時も週6,7で野球をしていたものの、この状況下で勉強の成績学年一位を目指し、思考錯誤し、中学三年の一回ではあるものの本当に一位を取った。