作野 充|Mitsuru Sakuno

FoodFul 創業者

2022年(20歳)、高校の寮生活で学校が提供する食のバランスの悪さや、食環境が軽視されている現状に怒りを覚えたと同時に、この環境に違和感を覚えるのが自分だけであることに驚き、小さい頃から食への意識を高められる環境・仕組みを作るべく、フードフルを創業。

サッカー人生、開幕!!(0歳~12歳)

2001年、2人兄弟の末っ子として日本・兵庫(明石市)に生まれる。当時からサッカーと水泳をしていた6歳の上の兄に影響を受け、1歳ころから水泳を習い始め、2,3歳の頃からサッカーボールを手にしていた。幼稚園児向けのサッカーイベントによく顔を出し、サッカー漬けの日々が幕を開ける。

小学校入学後も相変わらずサッカー漬けの日々が続く。小学生のクラブチームに所属し、キャプテンを任されることに。

当時もまだ体型がふくよかであったため、周りからはいじられながらも、チームの中で存在感を示しながら、サッカーに励む。水泳を含むその他のスポーツにも日常的に触れる毎日。短距離走が苦手だったが、長距離走では市の大会で賞を狙える程のポテンシャルを発揮していた。

所属していたクラブチームは常に県大会に出場する程の強豪チームであり、年上の子たちがひしめくチームを次々と打ち負かし、明石市のリーグ優勝などをキャプテンとして経験する。
同チームにてフットサル大会に出た暁には、これまた次々と相手チームを打ち負かし全国大会に出場した。

突然の脚光と苦悩(13歳)

中学に進学すると同時に、神戸市のサッカークラブチームに所属することとなる。
実力のあるサッカー少年が集まるクラブチームでまず行われるのが、今後三年間の背番号決め。
父からの勧めもあり、おこがましい気持ち一杯で、チームの中心的なポジションを指す背番号10番を名乗り出る。人気背番号の10番に名乗り出る者は多く、じゃんけんで決めることとなるもまさかの一発目一人勝ちで、一気にクラブチームの中心的ポジションとなる。
しかし、初年度の5月に足首を骨折。そこから一年間思うような活躍ができない不安定な日々が続く。

勉学はあまり得意ではなく、学年では中の下くらいの成績を彷徨っていた。学校生活では普段から表立って華やかにというよりかは、決まった友達とつるんで楽しむ、そんな中学生活を送る。幼馴染とも付き合うこととなり、サッカーにて悩める日々の中にも自分なりの生きがいを持って、中学生活の初年度を駆け抜ける。

失恋したり、学級委員長したり(14歳~15歳)

中学二年になり、当時付き合っていた幼馴染の子とお別れをしたり、自分の事に気があるかもと思っていた子が別の子を好いていたいたりと、各所で失恋の苦さを味わうも、学級委員長を務めたり、クラスではいじりいじられ、なんやかんやで楽しく充実した学校生活を送る。
サッカーでは、新たにボランチというポジションに挑戦し、功を奏す。大活躍の末、背番号10番としての威厳を取り戻す。チームも絶好調で個人としても中学二年から中学三年にかけてがサッカー人生において最も好調な時期であった。

ただ、中学三年の最後の最後で尾てい骨を骨折してしまう。

スポーツ推薦からのスーパースター?(16歳)

中学三年最後の怪我の影響で、高校最初の頃はサッカーが絶好調とは行かなかったものの、中学時代の好調なプレーを審査の際に魅せることができ、スポーツ推薦でかつ超注目株として、岡山県作陽高校に入学、サッカーチームに所属することとなる。岡山県国体(県選抜)にも選ばれる。

急激な状況悪化(16歳~17歳)

高校一年の時にサッカーにて岡山県国体(県選抜)として試合に出るも、チームメイトの動きに対してブチ切れ、チームの雰囲気を壊してしまい、県選抜から外される。

また、自身のチーム内でも、とにかく先輩ファーストな風習によって、日常における洗濯や風呂もままならず、頻繁に先輩には詰められ、年上とは一切仲良くなれず、そんな寮生活によって、心身ともに限界を迎え、サッカーから日常生活まで不調な日々が続くこととなる。その後、怪我をし、冬を迎える。落ちるとこまで落ちた高校一年の末となった。

その後、二年も膝の不調や、度重なる肉離れ、足首の捻挫など、いくつもの怪我に悩まされ、思うようにいかない時間が流れた。この時にスポーツ推薦での大学進学は難しいと確信する。

学業においては、テスト結果などあまり良くはなかったが、周りの人たちもスポーツに振り切っており、学業が得意ではなかったため、相対的に成績はずば抜けて良かったという。評定では4.8 だった。

返り咲くエース(18歳)

いつかは海外でサッカーしようとモチベーションを保ちつつ、なんとか調子を戻しつつ、迎えた高校三年。最初の試合で、監督の意向もあり、150人の副キャプテンとなる。新人戦では背番号10番を背負い、出場。かつての絶好調が蘇る。県大会を勝ち進むこととなる。

エースを襲った悲劇(18歳)

だが、何もかも絶好調とはいかず、県大会の決勝の朝にまさかの熱を出し、不出場。この熱が長期間にわたり続くという原因不明の状態に陥り、サッカーをすることがままならない期間が続く。
その後も復帰するが、重ねて膝を怪我してしまい、とうとう大学へのスポーツ推薦を諦めざるを得なくなる。海外へのサッカー留学を視野にいれようかという時に、はとこのお母さんから、海外に吹っ切るよりも良い選択があるのではないかと提案してもらう。

周りを見た時に、自分より学力がなさそうでもAO入試で良い大学に行っている人がおり、自分の現状でもAO入試なら、納得できる大学にいけるのではと、国内を視野に方向転換する。サッカー部を休部し、大学への進学準備に振り切ることとなる。

プロを目指して大学へ。(19歳)

立命館大学に進学。高校一年のころから疑問を抱いていた寮での食事(白ご飯をたくさん食べさせられるのにおかずが余りにも少なく持参していたり、バランスが偏ったり…育成期間にも関わらず食にお金をかけない学校側に怒りを覚えたこと)をきっかけに食マネジメント学部を専攻。大学でもサッカーチームに所属。調子も良く、親孝行のためにもプロを目指してもがこうと決意。

サッカー人生トドメの一撃(20歳)

試合中に半月板を割るという大怪我をする。サッカー人生初めての手術にサッカー人生にトドメを刺されるような感覚を覚えた。入院中、ふと立命館大学食マネジメント学部を専攻した原点に立ち返る。人生を振り返り、考える時間ができたことによって、自分がもし仮にサッカー選手になれなくとも、サッカー選手を支える食のエキスパートになれたらかっこいいなと思い始める。

食に関する既存企業の取り組みは自社製品に寄ったものが多く、あまり自分が考える世界と合わなかったため、色んな食に自然と触れられる環境を創り出すべく、起業を決意。まずは、海外に日本の食文化を持っていこうと思い、そのアイデアを友達になるべく発信するようにしていたところ、後の共同創業者となる柳と出会う。起業する旨をサッカー部の監督に伝えたところ、バカにされたため、きっぱり退部。

新たな人生に魂込めて(20歳~)

サッカー部退部後、すぐに関西大学の起業支援プログラムに参加。そこでアイデアをブラッシュアップし、後に、離乳食にまつわる事業内容へと方向転換していく。

「半径1mの人との思い出を一生残すことができる世の中にする」こと。その想いを胸に、みんなの手の届く範囲の人を守ることができるような社会を創っていこうと決意し、進む。

ぷちコラム

幼稚園・小学校は女の子からモテにモテまくり常にハーレム状態だった。

好きなサッカー選手は、シャビ・エルナンデス。

中学一年の夏。当時付き合っていた幼馴染の彼女と図書館で勉強をし、日も暮れる帰り道、住宅街にぽつんとたたずむ田んぼの前で、突如、その場の空気感からチューをせがむも、やんわり断られ、その恋愛は夏の夕日とともに、ひっそり幕を閉じた。

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